metaphorium

面白いと思った本(主に小説)の書評を書いていきます。

【感想】『ケン・リュウ短編傑作集2 もののあわれ』

 本書は、『ケン・リュウ短編傑作集1 紙の動物園』の続きにあたる短編集だ。傑作集1と2はもともと新☆ハヤカワ・SF・シリーズ『紙の動物園』に収められた作品群を2冊に分けたものなので、この短編集全体を通じて感じた感想については、傑作集1の書評で述べた内容と基本的に変わらなかった。なので、今回は、特に気に入った3つに作品ついて、個別に感想を述べていきたいと思う。

 

もののあわれ

 表題作であるこの短編は、地球に小惑星が衝突し、他の惑星を目指す宇宙船の中で唯一の日本人となった語り手の物語だ。"もののあわれ"とは、日本人の美意識の根底にあるといわれる概念だとされている。この短編では、「蒲公英のうつむきたりし月の夜」という俳句を聞いた語り手の心に表れた感情について、語り手の父はそれが"もののあわれ"というものだ、と幼い語り手に諭す。

 

「おまえの心が感じたその気持ちは――“もののあわれ”というものだ。命あるあらゆるものが儚いという感覚だ。太陽もタンポポも<鉄槌>も、われわれみんなも。われわれはみなジェイムズ・クラーク・マクスウェルの方程式に支配されており、継続時間が一秒であろうと十億年であろうとみな最終的には消えていく運命にある一時的なパターンなのだよ」

 

 

 この“もののあわれ“の精神の作中でのあり方として、小惑星が衝突する地球か脱出することができないと知り、自分たちの運命が決したことを知った後の日本人の振る舞いがある。小惑星の地球への衝突が避けられないものとなり、世界中が暴動や略奪で混乱する中で、日本では「そうならなかった」とされている。語り手の恋人は、その様子を聞いて日本の人々は「諦めてしまった」と言うが語り手はそれを苛立たしげに否定する。彼が言いたかったのはそれが日本人の”もののあわれ“という精神性から来るものだと言いたかったのだろう。この恋人のように、「静かに受け入れる破滅」といった想像力は、欧米的な文脈からは出てこないのかもしれないと思った。

 この作品の結末は、語り手の「自己犠牲」という形で幕を下ろすのだけど、最後の場面は本短編集屈指の美しさだと思っている(もちろん、感傷的すぎる、と言う人もいるかもしれないが)。

 

「どこかまったく別な場所でトナカイの大群が」

 シンギュラリティを迎え、一部を除き人類が実体を持たなくなり、データセンターと呼ばれる高性能なコンピューターの中で存在するようになった世界の話。シンギュラリティについて僕は詳しくないけれど、技術的特異点と呼ばれるもので、本作品やケン・リュウの他の作品では、シンギュラリティを迎えた人類は身体を失いデータ上の存在となり、個ではなく集合体として描かれている。この短編では、そのようなデータとして生を受けた娘と、元来生身の身体を持ち、その後シンギュラリティを迎えた世代の母との交流が描かれる。この作品に限らないけれど、科学が進歩し、人が形さえ変えてしまったとしても、旧来の人間の欲求は残り続けるというのがケン・リュウの基本姿勢なのかもしれない。

 

「良い狩りを」

訳者は巻末でこの作品の魅力をその「転調」にあると述べている。そのとおりだろうし、転調した後、再び本来の調子へと戻ってくる瞬間が本作品の最も美しい部分だと僕は思っている。

 語り手やヒロインの立場や、中国人が信仰する像を壊したり、支配者層として振る舞う英国人の描かれ方を見ると、本短編集に収められた他の作品よりもずっと欧米の植民地主義や科学主義を批判的にとらえているように見える。しかし、本作でフィーチャーしているのは科学の力や支配層を利用して生き残る人間のバイタリティやしたたかさではないだろうか。